2004/11/22(mon)
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人と人はどこまで分かり合えるのでしょう。脳は具体的な経験から学ぶようにできているので、経験が違えば別々のことを学ぶ。当然のこと。もちろん外的世界にはある程度、基本的なレベルのルールが存在するので、そういうレベルのことはみなの共通認識として学習されるだろう。だからそのレベルの範囲内では共感は成り立つだろう。でもより複雑なレベルになると、外的世界に対してどう対処するのかといった選択肢が多数存在するようになり、そのどれを選択するかという問題を解決するために、個々人が自分なりのルールを学習していく。なので、そのレベルの認識について共感を求める場合には限界を感じるもの。おそらく人が共感を求める場合には、その自分が選んだルールが確かなものであることを認識したいという動機も働くのであろうから、この共感の得にくいレベルで共感を得ようとすることが多くなるのだろう。やっかいなものだ。 経験が違うことからそのような厄介さが生じるのだから、案外、共感を得ることのもっとも妥当な選択肢は“経験を共にすること”かもしれない。でももちろん、それまでの経験が違えばそれにも限界があるだろうし、修正されることの可能なレベルのルールとそうでないルールがあるだろう。その見極めもすごく難しいと思う。そしてまた、ここで厄介なのは、やっぱりその修正されにくいルールについて共感を得たいと思うことのほうが多いのではないかということ。共感って何で必要なんだろう... ...考えるのがやになった。長年連れ添った夫婦にインタビューしたい気分だ。
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