心中寫 (2005/10)
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2005/10/30(sun)



いくら予測していても、人は傷ついてしまうものです。 母方の祖父は画家でした。小学生の頃、絵をかいて祖父に見せに行くと、祖父は “かわいいなぁ”と評してくれました。そのことをうれしそうに母に報告すると、母は“とうちゃん(祖父のこと)は下手やったら "かわいいなぁ" って言うとけー”というのです。 そうだったのかと衝撃を受けた私は、祖父に“ "かわいいなぁ" じゃなくて上手いか下手か教えて”と問いつめました... ...いくら予測していても、人は傷ついてしまうものです ...にしてもあのとき母は何で?

2005/10/28(fri)



気づかないのは悲しいこと。悲しみを覚えるのは本人ではないけどね。

2005/10/27(thu)



幸せになりたければ考えすぎないことだ。言葉の表面的な響きの善し悪しで物事を判断し,人当たりのよい言葉を吐き続ければいい。意味など求めず,社会的に認められた価値を,ただひたすらに追い求めればいい。利口な大人ほどそうしているものだ。人である以上,誰かに認められてこそ存在できる。同じ意味を求めている他者が存在すれば,その意味を求める行為とその行為の主体はそれなりに価値を持つことになる。だが,考えた末に求める意味ほど,誰も求めてはいない。誰もそこまで考えないから,理解されにくい。そこに価値は見出されてはいない。意味を求めるのなら,それなりに覚悟がいる。

2005/10/25(tue)



論文2本目が通りました(。-_-。)v 最初に通った論文と同じ雑誌だということもあり,あまり前に進んだ気がしないのですが... 思えば,最初に投稿したのがこの論文でした。雑誌のレベルと自分の論文のレベルをうまく釣り合わせて妥当な雑誌に投稿する,というスキルが全くない状態で,試行錯誤的に投稿していたので,2回もリジェクトされた論文です。要は無謀にもレベルの高い雑誌に投稿しまくったということです... でもおかげで,評価が高いといわれている論文に投稿する際には,何が求められるのかが少し分かった気がします。私にとってこの論文は,そっちの意義の方が大きかった気がします

2005/10/21(fri)



いまの自分で測りすぎない方がいい

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博論の第二次審査会が12月6日に決まったそうです。よろしくお願いいたします。

2005/10/16(sun)



うちで作業をしていると,近所の子どもたちが楽しそうに,外を駆けずり回っていました。博論の考察や将来のことを考えていると, 子どもの楽しそうな声が聞こえました...“死んでしまえばいいのに”と...笑いながら言う台詞じゃなかとです。

2005/10/16(sun)



理論を形成する際には,その理論が説明できる範囲をしっかり限定する必要があります。視野を広げれば広げるほど,説明できないもののほうが多いことが分かるからです。もちろん,様々な事象をなるべく少ない理論によって説明できるような理論が立派ですから,視野を広げてみていく必要があります。しかし,それも一歩一歩だという気がします。とりあえず範囲を限定した上で理論化とその理論の精緻化を行い,次にそれ以外の範囲の事象にまで広げて修正を加え...というプロセスがいるような気がします。(ちなみに人間には自分の持っている理論にあう外的刺激を選択するバイアスがあるといわれております。気をつけねば...)。多くの理論が,最初は単純でも,検討が進むにつれて複雑化していくのはそのためでしょう。まあ,真理をついたような理論をいきなり思いつけるような才能や運があれば,そんなプロセスは必要ないのかもしれませんが... でも,そんな真理を突いたような理論ではなくても,範囲を限定した上で,ある程度 単純性と新規性を備えていれば,何らかの形で学問社会に貢献できるものだと思いたいですね。

我々は意識している・していないにかかわらず,個々に何らかの理論(価値観,基準)を持って,行動を選択しています。社会的動物である人間は,その理論の多くが,社会的な行動選択に必要な理論であると思われます。そのため,人とのコミュニケーションや,人の観察を通して,その理論は修正されます。その際,様々な理論(いろんな人の価値観)を受け入れ,広い視野をもった理論にしようという努力をする人もいます。その姿勢はすばらしいことです。しかし,そのことを第一の目標にしてしまうと,相当の才能や運がない限り,安定した理論を形成することができず,行動選択がうまくできないことになります。その状態はおそらく,心の病気の1分類に含まれるものでしょう。とりあえずは,範囲をしっかり限定した上て,自分の理論をまとめることが大切です。

何にしても,優れた理論を形成するというのは難しいものです。理論の精緻化を行わないうちから,適用範囲を広げようとすると拡散するだけだし,その理論にとどまっていてもしょうがないし。適切に開け閉めできる扉が必要ですな。鎖国も長すぎなければ日本文化のためにはプラスです。そう考えると,人の理論をそのまま輸入するほど楽なものはありません。しかし,その理論では説明できない事象に出会ったとき,輸入に頼っている人は,自分で理論を適切に修正することができないでしょう。

2005/10/11(tue)



論理統合型の論文も,新たな研究を刺激しないと,価値は半分以下ですよね...
単純性と新規性を備えた理論と,それを検証するための具体的な方法論の提示が,優れた論理統合型の論文の要件なのかも。

2005/10/10(mon)



 そういえば本格的に日記のようなものを書き出したのは高校の頃だ。弓道をしていてその日に気づいた点や教えてもらった点を,忘れないように書き留めるようにしていたのがきっかけだ。
 当時の悩みの一つは,自分の感覚と,他者から教えてもらったことが食い違ったとき,どちらを選択すべきかというもの。自分には感覚的なものは分かるが,実際に自分の身体がどのような動きをしているのはわかりにくい。他者はその逆だ。今思えば,うまい者に限って,自分の感覚を信じていたように思う。でも自信のもてない私は,他者の意見に右往左往していた。
 自分を信じればいいってものでもないから難しい。ある力士は右四つと左四つ,どちらでもとれる関取になりたいと思っているらしい。親方からは,どちらか1つを選んで,得意を作るべきだと言われているらしいが,今のところ自分の信念を通しているようだ。その力士はある程度強いが,現在は伸び悩みを見せている。でもまだ結果が出きった訳でもない。
 自分を信じるべきか他者を信じるべきかという概念区分は,正しい選択をもたらすものではないようにみえる。基準は常に見直されていくべきものだ。そのための前頭葉。そして多くの理解をもたらす区分の仕方を探すのが科学だ。

2005/10/9(sun)



現象発見型の研究も,その後の研究を刺激するし,その現象を知ったときに面白さを感じますが,論理統合型の研究に美しさが伴っている時のあの感動は一入ですな。いずれそういう論文を書けるようになることを,目標にしておきたいと思います。

2005/10/02(sun)



最近,このページを見て下さった方から,メールを頂けることがあります。本当にありがとうございます。先日は,小学校の頃の同級生らしき方からメールをいただきました。小学校時代ってもう15年程前なんですよね... 人のつながりって不思議なものです。

このところ,特に理由もなく(たぶんあっても分かってないだけなんでしょうが),自分の中での基準が揺らぐことが多く,なんだか不安定な感じです。でも,メールを頂き,勝手に励まされております。この揺らぎを成長のチャンスにできたらと思っております。

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