心中寫 (2005/2)
※ご意見などございましたらこちら

***日記のTOPページへ** 過去日記の保存場所へ ***

2005/02/24(thu)



学術論文の巻頭言などにたまに粋なことを書く先生がおられる。この前は心理学者に哲学がないことを憂い、その重要性を述べてあるような文章を見つけた(私はここで言う哲学を、先人の哲学者の言葉を勉強することではなく、生活していくためだけには必要のない、物事の裏側や深遠に潜む様々な事実について考えをめぐらすことだと勝手に理解している)。

これはある意味仕方のないことだ。心理学者だって飯を食っていかねばならないし、名誉をほしがる人も多い。そんな目的のためには哲学が必要でないことの方が多いし、むしろない方がうまくいくようにも思える。なぜなら、論文にそんな哲学的なものは要求されないし、ポップなテーマについての論文を数多く出すことが飯と名誉に結びつくような評価システムになっているからだ。だからそんなことに容量を割かないで生きていくほうが適応的ということになる。

良し悪しでなく、あえて好き嫌いの次元で表現すると、私はそういう人を学者としてはあまり好きになれない。話をしてて面白くないからだ(会話しとして成立しないことさえ多々ある)。

でも私には数人、尊敬できる先生や先輩がいる。そういう人にはやはり哲学を感じる。言葉の端々に含蓄があるし、話が面白い。私はぜひそういう方々に成功をつかんでいただきたい(実際そういう先生が最終的にはいい評価を得ている気もする)。そういう人の存在はそれ自体が励みとなるものだ。あの巻頭言を書かれた先生を含め、そのような人の存在が伝わることで、その先生の憂いが払拭される状況が作られていくのだと思う。

2005/02/23(wed)



私は世間に対して怒りを感じることが多い方だと思う。別に暴力に走るわけではないが(甘えれる人には愚痴るけど・・・)、作業が手につかなくなることがある。あまり得した気にはなれないし、一般的にも喜ばれた性質ではないだろう。

でも、聞き慣れた耳障りのよい言葉を吐くことで、自分の思考停止状態を自分に対してもごまかしているような、妙に聞き分けのいい大人になってしまうよりはましな気もする・・・。(でもやっぱよくないっかなぁー・・・ うーん・・・)

2005/02/20(sun)



すべてを受け入れることができるような大きな人間になれたらと思う反面、どうしても受け入れることのできない事象を感じることも多くある。物事について自分なりに考えていると、そのような事象を検出してしまうことは仕方のないことだと思うし、そういうことを感じれる自分でありつづけたいとは思う。でもやはり、自分はなんてちっぽけな人間なのだと思うことも多々ある。

こんな私を、人々は様々に評価する。こだわりの良い面を評価してくれる人もいれば、偏狭なやつだと評価している人も多いだろう。今のところ、こだわりを持ちつつ、すべてを受け入れることのできるようなスタイルを手に入れる術は持ち合わせていないが、こんな人々の評価の違いを楽しめるくらいの余裕は持っていれたらと思う。

2005/02/19(sat)



良い詩(ことば)には含蓄がある。でも論文に用いる言葉自体には含蓄があることは喜ばれない。つまり、同じ言葉を異なった意味で捉えられるようなものは質の悪い論文だとみなされる。でもそこに示した理論に含蓄をもたせることはできるはずだ。同じ理論でも異なる人が知ることで様々な方向に広がっていくような理論もあるはずだ

2005/02/18(fri)



以前は研究スタイルとして、あまり(研究)社会の流れを気にせず(むしろ時にはそれに逆らうことで)、自分が何に価値をおいているのかをしっかり見つめ、忘れないように形にすることに取り組んできたように思う。もちろん、その時にも、社会の流れに乗ることがどれだけうまくいくことかは理解していたつもりだ。最近はだいぶ、自分の価値感が明確になってきたせいもあり、自分の認めるものの価値と、社会において認められるものに存在する価値との位置関係を考えるようになってきた。つまりは自分が重視しているものをいかに社会に売り出すかを考えるようになってきた。(所謂成功のためにはだいぶ遠回りをしてきたような気もするが、単に流れに乗って自分の価値を見失うようになる将来を避けるために重要な時間だったと思うようにしている)

私の研究におけるアイデンティティは今のところ、選んだテーマと手法とその組み合わせにあると思う。それぞれを極めることも1つの売りになるかもしれないが、独自性としては低いままだろう。将来的にはそれらから生じる独自の大きな理論が必要だ。“大きめ”というのにも複数のレベルがあるだろう。いくつかの基礎研究領域をまたがる理論であるとか、応用分野にまで影響力を持つものまで。後者だとなおよい...地道にがんばっぺ。

2005/02/13(sun)



経済性,利便性,長生きにつながるか・・・
趣味的な価値しか認められていなかったものが、生活レベルで価値のあるものだとみなされるようになる瞬間, そこに存在する条件とは何か?

2005/02/10(thu)



事物の価値を決めるのは 個人か? 社会か? (アメリカか!?)

---------------------------
アメリカ人が建てたインディアン博物館に行った

2005/02/09(tue)



母親は立派な専門職ですな。

--------------------
生後1ヶ月の甥っ子の寝かしつけに初成功。
5分後 なきながらお目覚・・・

2005/02/07(sun)



姉の息子に会いにアメリカに飛びました。
広島から成田の飛行機はこんな小型機なんですね。
怖かったです。

2005/02/03(thu)



 よく言われていることかもしれないが、ヒトは言葉による二次的な進化の最中にあるという考え方があるらしい。遺伝子によって種に伝えれれる情報は比較的ゆっくりと生物学的な変化を生む(例えば、平安時代の人類と現代の人類には生物学的な違いはほとんどないらしい)のに対し、言語によって伝えられる情報(知識など)の変化は劇的なものだ(科学技術などに反映されているだろう)。
 
 そのような、言葉によって伝えられる側面は今後も進化し続けるであろうが、それ以外のものは繰り返されるだろう(感情的な側面など)。そのため悲劇的な出来事は繰り返される傾向にあるのかもしれない。しかし感情などをコントロールすべき状況やその意義・方略などは言葉によって(時には感情を喚起させることによって)伝えることが(ある程度は)可能なはずだ。洗練された倫理学に基づく倫理とそれを伝える手段とが言葉の力によって劇的に進化すればいいなぁ・・・

2005/02/02(wed)



完璧でないこの世の中には恐らく、適応すべき側面と適応すべきでない側面がある。
現状に適応すればいいってもんでもないところが難しい。
常識を根拠にものを語る人や、適応することのみに躍起になっている人を見かけると 勝手にちょっぴり悲しくなる。
でもまあ、結局は本人が何を求めているかが違うだけなんだろうけど・・・

***日記のTOPページへ** 過去日記の保存場所へ ***

inserted by FC2 system