心中寫 (2005/6)
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2005/06/19(sun)



夢を見た.渡されるハーブの匂いを嗅ぐという,文脈のよく分からない夢.バジルなどのおなじみのハーブの匂いはしたのに,知らない(でも名前は聞いたことのありそうな)ハーブの匂いは全くしませんでした.知らない場所が夢に出てくることはあるのに,匂いだとそうはいかないのかしら...?

2005/06/14(tue)



少し前に投稿ていたfMRI論文のコメントが届きました.リジェクトではなかっんですが,SPM99という分析ソフトで分析していたのをSPM2という新しいバージョンでやり直せとか,ROI分析をやれとかいう要請がありました.SPM2で分析し直したところ...SPM 99の時と傾向が全く違い,かつ全体的に差が出にくくなっていました(ToT).(SPM99とSPM2の違いが何かについてはここに書いてあるんですが,まだちゃんと読めてません...).ROI分析でも差は見られません...ROI分析の別のやり方を試すとか,もっと別の分析もしてみるという選択肢は残っているのですが... どうしよっかなぁー.困ってしまって笑けてきました.

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基本的なSPMによる分析ではボクセルというデータ単位ごとに脳全体について条件間のt検定を行います.その際,データの時間的・空間的な非独立性や複数回のt検定による第1種の過誤を犯す可能性の増大といった問題を解消するための処理を行います.求められたボクセルごとのt値の空間分布をマップに表したものがよく論文にあるSPM{t}の図(t値をボクセルlごとに標準化(Z値に変換)して空間分布を示したのがSPM{Z})

ROI(region of interest)分析では,先行研究などから前もって活動するであろうと予測されるような場合に,その部位について検討します.特定の興味部位に含まれるボクセルの効果量(統制条件などとの差の検定の際に算出されるt値に基づく数値)の平均値が,他の条件と有意差があるのかを検定します.

2005/06/13(mon)



複雑な処理を背景とする現象になればなるほど結果を出したり,理論にまとめることは難しいかもしれないが,単純に結果が出やすい,もしくは理論にまとめやすい現象だから取り組むというのもどうかと思うときがある(一見,関連なさそうなものでも関連を見出して取り組むというのとは別).

捜し物があるのなら,落としたところを探さないとダメだ.探しやすい明るい場所を探していてもいつまでたっても見つからないだろう.誰かがライトの向を変えてくれない限り.まあ何でもいいから見つければいいというのであれば話は別だけど

2005/06/12(sun)



共感は自分を保つことに不可欠なものかもしれないが、度を越すと自分を浸食してしまうものでもある(共感してくれる人の数にしろ、特定の人との共感の深度にしろ...).言葉という,便利だけどもどかしいく不完全な媒体が,そのバランスを取ってくれているのかもしれない.

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気になったニュース:厚生労働省,うつ病による自殺を減らすための初の大規模研究に着手.研究期間は5年間で予算は計10億円

2005/06/12(sun)



現在の枠組みでは無理だと思えるものに挑むぐらいで丁度いいんじゃねぇか?

2005/06/11(sat)



適応には2種類.既存のものにあわせていく能力と,既存のものを変えることのできる能力.一般に適応という場合 前者を指す.

社会脳仮説によれば,人間の脳は社会という複雑な(生存のために考慮すべき要因の多い)状況に適応することによってここまで進化した(この場合の適応も前者).

しかし,現在の人間社会において優れた脳を持った個体と見なされる人間は,単純に前者の意味での適応ができる存在というよりは,後者ができる存在ではないだろうか.優れた学者もその一部だろう.

おそらく,単純に前者の意味だけでの適応を考慮して行動しているだけでは,いつまでたっても後者の意味での適応能力をもつ存在にはなれないだろう.前者を求めるだけでは手に入れることのできない,何らかの能力(批判的思考能力や創造性などがそれにあたるのか?)を獲得する必要がある.それはもしかすると前者を求めてては手に入りにくくなってしまうものなのかもしれない.

しかし,現代社会における学者の立場は決して前者の意味での適応能力がなくても許されるような立場ではない.ちゃんとした社会人としての大人になることを求められる.それは別に悪いことでもないし,当たり前のことだ.ただ学者として大きな目標を持っている人間は,その前者の意味での適応を成し遂げることに慣れすぎないように注意しなければならない.

大人な行動をとりつつも,既存のものとは異なる何かを常に求め,かつそのような態度から生まれたものを伝えていくことのできる存在,そんな人が後者の意味での適応ができる人なのかもしれない.

2005/06/05(sun)



その分野の専門家からみたら研究自体が結構ありふれたものであっても,伝え方や位置づけ方によって注目度は変わるものだ().

もともと注目を浴びそうなポップな現象を選んで取り組むというのも研究テーマ選択の手かもしれないが,私のように知りたいテーマが先にある人間は,そのテーマのおもしろさを如何に伝えるかということにも長けていかなければならない.

研究者だって別に世間から隔離された世界で生きているわけではないのだから,資本主義社会における研究者は経済原理から逃れることができない.そういうものを超えたテーマに対して十分なお金をつぎ込めるほど,私が所属している現代社会は成熟してはいない.そんな環境で自由に研究したいと思えば思うほど,その原理とうまくつきあって行かざるを得ない.その一つの能力が自分が興味を持っているテーマの意義を伝える能力なのだろう.

私にはまだまだその力が足りない.

2005/06/03(fri)



 研究会などの場で,様々な意見が出る.その意見の分類の仕方にはいろいろあると思うけど,最もおおざっぱな分類の一つは「知識ベース」と「理論ベース」だと思う.

 研究会などの発表に関わる自分の持っている知識を述べるのが「知識ベース」,より一般的なその学問分野や科学,そしてその人なりの枠組での考え方(理論)を基に,その発表内容についての疑問や提案などを述べるのが「理論ベース」. 

 もちろんどちらも大事.知識のないところから新しい発想は出てこない.理論がなければ,パソコンと同様,知識の保持機能がその人には備わっているというだけだ.もちろん,大概の研究者は両方をこなすことができる.ただ,中には「知識ベース」のみの状態を抜け切れていない人もいる. 

 確かに知識ベースでものを語る方が確実だ.記憶さえ確かであれば間違ったことを言う確率は低い.理論ベースでその場で思いついたことを語れば,的外れなことを言ってしまうこともあるだろう.でも知識ベースだと適用範囲は狭い.理論ベースはその逆で広い.

 知識の獲得方略は学校教育で十二分に習ってきたことなので,取り立てて考える必要もないだろう(知識ベースのみでものを言う人はその教育の影響を超えられずにいる人なのかもしれない). 

 理論の獲得には2つの段階があり,1つめの段階には2種類がある.1つめの段階の1種類目は,人から理論をもらう学び方 (「理論受容型」) .2種類めは人の意見から理論を抽出する学び方だ(「理論抽出型」).どちらも有効だが,前者はできても後者はできない人がいるように思う.

 研究会などで自分がどんなことをメモしているのかで,自分が「知識ベース」でものを言う人間になるのか,「理論ベース」でものをいえる人間になるのか,「理論ベース」の中でも,「理論受容型」か「理論抽出型」かは分かると思う.「理論抽出型」の人間はおそらく,人の意見を聞いた際に,何を言っているかを聞くだけでなく、なぜ・どのように,その意見が出てきたのかまで推論している.

 では理論の獲得の2つめの段階とはなにか.それは理論間の操作による理論の創出だ.もちろんこの作業は「理論抽出型」でないとなかなかやらないと思う.でも操作する理論は人から受容した理論でも,抽出した理論でもよい.獲得した理論 もしくは存在を知っている理論を眺め、抜けている点を見つけ理論で埋める.そういった作業が2つめの段階の作業だ.

こういった作業の繰り返しがその人なりの理論の構築をもたらす.

 「知識ベース」
 「理論ベース」 -「理論受容型」
           -「理論抽出型」-「例からの抽出」
                    -「理論間の操作からの抽出」 

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