心中寫 (2005/8&9)
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2005/09/26(mon)



インプットはしてもアウトプットのないシステムに,豊かなアウトプットができる時がくるのでしょうか?知ってることに最大の価値をおくシステムは付加価値を伴った出力が可能なのでしょうか?人間であればコンピュータとは違って,知識をため込むことで創造的な出力ができるようになるのでしょうか?

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News<難病ALS患者の意思伝達、判定装置「心語り」開発>。NIRSですか?そのうち,回りくどい処理させてYes/Noを判断するのではなく,意思伝達が可能になるのかのぅ?

2005/09/23(fri)



投稿していた論文の返事が4ヶ月たっても返ってこないので,問い合わせのメールを出したら,すぐに結果が帰ってきました。どうやら,忘れられていたようです(ちなみにリジェクトではなかったのでホッとしてますが,これからが大変です)。私は運が悪いのか,なぜかリジェクトではなかった論文は全て,問い合わせをしてようやく返事が帰ってくるというパターンです。論文が戻ってくると作業が増えるので,当分戻ってこなくてもいいや...という弱い気持ちも働きがちなんですが,やっぱ3,4ヶ月たったら問い合わせるべきですね...

2005/09/22(thu)



要は「感じること」を増やしたいだけなんだ,ということを思い出しました。研究者になろうと思ったのもこのためだったのだと,ハッとしました。時の人になりたいわけでもないし(だったら別の道の方が近道),後世に名を残したいわけでもないし(そのために生きるのも結局・究極むなしい),偉いと思われたい訳でもない(だったら第三者からでもそう見えるように肩書き気にして生きてますわぃ)。

「感じる」活動にはいろいろあって,そのどれをも認めています。ただ,それでも研究を道として選んだのは,「新たな見方を知ることによって感じること」が,私にとって劇的だからだと思います。知ることによって様々なものが全く違って見えてくるときのあの感覚。おいしいものを食べて感じるのも楽しいですが,刹那的な悲しさもあります。それがいいという面もありますが,全体が劇的に永続性を持って変化する感覚には代え難いものです。多次元のベクトルが一つの方向に向かって,ものすごいエネルギーを伴って収束しだす気づきの瞬間。意識に興味がある理由の一つも,こういった感覚が不思議なためかもしれません。

私には豊かにものを「感じている」人ほど魅力的に見えます。おそらく,そういう人ほど,他者を「感じさせる」ことのできる人だからでしょう。


(ここからは特に蛇足ですが)最近私は,自分が感じた瞬間に,結構満足してしまっていることに気づきました。他者に伝えて他者にも感じてもらおう,という思いがそんなに湧いてこないのです。過去の失敗経験などが影響しているのかもしれませんが,何にせよ,これはよくない傾向です。他者から見て魅力的な人間になれないから,ではありません。こと研究に関して問題なのです。

少し前に私は,(客観的にどれだけ新しくオリジナルであるのかは別として)自分の中で魅力的な考え方に行き着き,興味が広がり,様々なものが整理されていく感覚を覚えました。研究者であるならば,その考えが正しいのかを検証するための活動をコツコツと行い,世に問わねばなりません。もちろん,そうしようと友人と共同で,具体的な実験などを考えてはいますが,興奮している割にどこかやる気が起こらない自分がいるのです。きっとその劇的な感覚を覚えた瞬間に,自分の中での最も報酬的な活動が終わってしまったのだと思います。問題です。何でもいいから動機を維持しなければ...。共同研究はいい方法かもしれませんね。責任感も湧くし。

2005/09/20(tue)



芸術家はどんな目標を持って活動しているのだろう。芸術家でない私が想像する芸術家の目標の最も単純なものは,自分の感覚に基づき納得のいく作品を生み出す,というもの。でも,もしこのような目標を基に活動しているのであれば,ものすごく不安になりそうだ。目標に近づくために磨く技術的なものだけでなく,目標の基準となっている自分の感覚も変化する訳で... 何をゴールとするのであろう...ゴールなんて求めていないのか?

私は自分の知りたいことのために研究を続けようと思ってきた。でも正直,どこまでわかれば納得できるのか,よくわからなくなる。問題だと思っていたものも,理解が進むにつれ,(正当な形ではあるが)別の問題にすり替わったり,特に問題ではないような気がしてきたり... 何かを発明するとか,具体的で客観的に観察可能な自然現象の謎を解明するとか,人の役に立つような知見やものを生み出すとか,そういうわかりやすい目標を基に動けばこんな不安はないのだろう... あと名誉欲とか。でも優秀な研究者の方々は自分の問題意識に本当に自信を持っておられるように見える。ものすごい洞察眼を持っているからなのか,小分けにした目標のみをみるようにしているからなのか,その他の理由か,よくわからないけど。

人の役に立つということは,とても報酬的なことだ。授業をしていて学生さんたちから好意的なフィードバックをもらうと,とても満たされた気持ちになれる。概念的で,すぐに何かの役に立つわけでもない研究をしていると,こんな経験は身にしみる。でもこの喜びは,“役立つ”とあまり思われていない心理学の有用性を伝えることができたことにも起因しているのかもしれない。

まとまりのない文じゃのぅ... 最近,基準が揺らいだり,自分のコントロールがしにくかったりで,すっきりしないからのぅ...

2005/09/15(thu)



昨日の続き。興味の幅が広がったのであれば,過去のものもその一部に位置づけることで,自分の中で新たな見方ができるようになる,と前向きに考えることにした。

2005/09/14(wed)



研究の方向性が自分の中で新展開をむかえると,興味の幅が広がって,とても心地よい状態になります。でも同時に,それ以前にやっていた自分の研究が,自分の中で一気に過去のものとなってしまって,その研究を学会や論文などで人に伝えるときに,自信を持っておもしろいものであるという態度をとることができなくなってしまいます。博論も然り... よくない傾向だ... なんとかしなきゃ。

2005/09/13(tue)



 学会に行ってきました。ワークショップなどでとてもおもしろいものがあり,充実していました。日頃は会えない先生や先輩とも交流できてよかった。ある先生に挨拶するときには,すごく緊張してしまって,ぎこちない感じになってしまいました。挨拶のタイミングを図っていたら,バチッと目が合って,その後 挨拶に行ったので「目があったから挨拶しに行った」みたいな感じになってしまいました...
 まあとにかく,優秀な方々に触れることができ,動機付けが上昇しました。最近,友人と共に思い描いていた仮説みたいなものと同じようなことを先輩も考えていて,その仮説に自信も持てたし。本当に共同研究とかできたらいいなぁ... 

2005/08/28(sun)



満たされない部分があるくらいの方が思考は進むとです。

2005/08/25(thu)



統計的に差がないとものがいえないことから,様々な認知処理間の"違い"に注意がいきがちだが,現在の認知科学にとって重要になってきているのは認知処理間の"類似性"かもしれない。いろんな細かな違いを報告しつづけているだけでは、ヒトの認知や心についての包括的な理解はえられそうにない... 類似性に基づく統合が必要になってきているようだ。

そうはいってもとりあえず、細かな違いを発見して報告しつづけないと食いっぱぐれるという現状もあるわけで... でも、認知処理間の"類似性"を統計的な差としてみれる方法もあるよね...

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