2005/09/22(thu)
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要は「感じること」を増やしたいだけなんだ,ということを思い出しました。研究者になろうと思ったのもこのためだったのだと,ハッとしました。時の人になりたいわけでもないし(だったら別の道の方が近道),後世に名を残したいわけでもないし(そのために生きるのも結局・究極むなしい),偉いと思われたい訳でもない(だったら第三者からでもそう見えるように肩書き気にして生きてますわぃ)。
「感じる」活動にはいろいろあって,そのどれをも認めています。ただ,それでも研究を道として選んだのは,「新たな見方を知ることによって感じること」が,私にとって劇的だからだと思います。知ることによって様々なものが全く違って見えてくるときのあの感覚。おいしいものを食べて感じるのも楽しいですが,刹那的な悲しさもあります。それがいいという面もありますが,全体が劇的に永続性を持って変化する感覚には代え難いものです。多次元のベクトルが一つの方向に向かって,ものすごいエネルギーを伴って収束しだす気づきの瞬間。意識に興味がある理由の一つも,こういった感覚が不思議なためかもしれません。
私には豊かにものを「感じている」人ほど魅力的に見えます。おそらく,そういう人ほど,他者を「感じさせる」ことのできる人だからでしょう。
(ここからは特に蛇足ですが)最近私は,自分が感じた瞬間に,結構満足してしまっていることに気づきました。他者に伝えて他者にも感じてもらおう,という思いがそんなに湧いてこないのです。過去の失敗経験などが影響しているのかもしれませんが,何にせよ,これはよくない傾向です。他者から見て魅力的な人間になれないから,ではありません。こと研究に関して問題なのです。
少し前に私は,(客観的にどれだけ新しくオリジナルであるのかは別として)自分の中で魅力的な考え方に行き着き,興味が広がり,様々なものが整理されていく感覚を覚えました。研究者であるならば,その考えが正しいのかを検証するための活動をコツコツと行い,世に問わねばなりません。もちろん,そうしようと友人と共同で,具体的な実験などを考えてはいますが,興奮している割にどこかやる気が起こらない自分がいるのです。きっとその劇的な感覚を覚えた瞬間に,自分の中での最も報酬的な活動が終わってしまったのだと思います。問題です。何でもいいから動機を維持しなければ...。共同研究はいい方法かもしれませんね。責任感も湧くし。
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