2007/10/15(mon)
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高校時代から,自分(そして恐らくヒト)がいろいろと考えていることは
(哲学的思考・世間離れした問題に対する思考だと思われるような思考でさえ)
結局のところ,自分の行動選択につながる思考なのだろうと思っています。
もちろん,特定の思考内容と行動との距離は,その思考の内容によって様々だと思うのですが,
思考のきっかけは自分の行動を選択するということにあり,
それがために最終的な帰結は自己の行動の決定ということになるのではないだろうかと思うのです。
思考が思考を呼び,行動からかけ離れることがありますが,あまりにも行動に結びつかない,
ある意味形而上学的な思考は,苦しみを生み,避けられる傾向にあるのだと思います
(避ける方法は多様でしょう。宗教,思考停止,とりあえずの結論の作成,世の常識に従う,命を絶つ等)。
形而上学的な思考にとらわれれてしまえば,そこに踏ん切りをつけないと行動しにくいものです。
そのようなレベルの思考でさえ,行動の基礎になっていると言えるのだと思います。
なぜヒトが形而上学的な部分について思考してしまうほどの知能を手に入れてしまったのかを考えると,
行動選択のための基準とすべき情報が複雑な社会を形成したことが影響しているのだと思えます(今のところ)。
私は高校時代にいろいろと悩み,答えが出ないから答えを見いだすために心理学を学ぼうと決め,
今の道を選びました。しかし実はその時点で悩みは消えていたのであって,
それ以上求めるべきものはなかったと思われます。それでも,そのことを認めてしまえば,
また悩みに逆戻りですから,「ヒトはなぜ悩むのか(初期はより限定された問題
「ヒトはなぜ自己について悩むのか」)」といった,メタ問題にすり替えたのです。
でもこれはこれで,いずれは役に立つ,価値のある問いだと思っています。
悩みの内容自体は人により様々ですが,悩みの構造,悩みの目的にはある程度の共通性,
法則性があると思えます。なぜヒトは悩むのかという問いに,実証的知見を添えて応えることができれば,
それを知らぬ状態で闇雲に悩む場合に比べ,自分を客観視した状態で悩みという作業に向き合えるのではないかと思います。
悩みの目的,ゴールを示すことが出来るわけでですから。悩みに陥っていくと,悩みの目的を忘れ,
なぜこんなにつらいのか,なぜ悩んでいるのかという,悩みに対する悩みにすり替わることがあります。
悩みという状態に苦しみ,命を絶つという形の逃避行動を選ぶ人が多いことが社会問題になって久しいです。
しかし,全ての悩みが行動を選ぶための悩みであるとすれば,
悩みとは生きていくために行っている作業に他ならないのであって,そのことを実証的に示すことが出来れば,
人が悩み上手になるきっかけくらいにはなるのではないかと思えるのです。
数年もしくは数十年かけて,
行動選択基準仮説をある程度説得力のあるデータに基づくものに成長させることが出来たら,
この辺を含めて本に出来たらと思っています。上述のような内容の本を,
実証的な知見に基づいて世に出すのが高校時代からの夢ですから。まぁ,時間をかけて検討した結果,
上述が全て極論・的外れってことが分かるだけ,という落ちが十分考えられるのですが...
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