心中寫 (2007/2)
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2007/02/24(sat)



 研究者として生きていく際には論文の本数も求められますから,言うまでもなく論文の本数は大事です。でも,そのことばかりに気を取られ,いつの間にやら質を求めることが疎かになってしまっていたようです。この状態を昔の自分が見たら悲しむでしょうな。そのことに気づかせて下さる方の存在というのは有り難いものです。感謝感謝。

 少々歩みが遅くなろうとも,質を求めてないと,しょうもない論文(自分を含めた誰の心にも留まらない論文)を量産する人間になっちゃいますから...。論文通すことに集中しすぎて,通った後に読む人のことを想像できないようでは駄目ですな...。時間かかる分,長生きすりゃいいや。

2007/02/23(fri)



完璧な本,完璧な映画,完璧な授業,完璧な実験,完璧な発表,完璧な論文,完璧な生活,完璧な休養,完璧な笑い,完璧な一日,完璧な人柄,完璧な生き様

おっ,いいぞ!ばからしくなってきた!

2007/02/09(fri)



「あたり前」って何でしょうね。

 自分が身につけたものは自分にとってあたり前ですが,人にとってはそうでないということはよくあります。 あたり前って言っている割に,あたり前の共有は難しいもんです。 もちろん,ある程度の人数のヒトに共有されているものもあるでしょう。 じゃあ,それをあたり前と呼べばよいのでしょうか。でも時がたてば共有されているあたり前なんて変化してしまいます。 その変化に長い時を要さないこともしばしばです。

 新たなものを知るときには興奮するものですが,その後はあたり前になってしまうこともあります。 逆に知れば知るほど,あたり前でなくなることもあります。

 昔は「あたり前」と思っていたことを, 単に忘れてしまって,「あたり前」でなくなってしまうこともあります。

 私が日記的なものをつけだしたのは高校時代です。高校生の時は弓道部に所属していました (はまっていました。下手でしたけど...)。
 的に当てること(結果)も大事だが,弓を引く姿の美しさ(プロセス)も大事だ,と教わりました。 もちろんこの両者には,ある程度の因果関係があるでしょうが,完全な因果関係ではありません。 プロセスが大してよくなくても,いい結果を生むこともありますし,プロセスがよくても結果につながらないこともあります。
 しかしその当時から私は,プロセスがよければ結果がついてくると信じ,プロセスばかりを重視する悪い癖がありました。 プロセスをよくするために,プロセスについて自分で感じたこと,人から指摘されたことをメモするようになりました (他にもメモをしている人は多くいたと思いますが,おそらく私よりは結果とプロセスのバランスのとれたメモだったことでしょう)。 プロセスは毎回変化しますし,自分の感じたことや人が指摘してくれたことも忘れないようにメモをとりました (自分の感覚と人の指摘とが食い違ったときにどちらを選ぶのかにいつも迷ってた覚えがあります)。
 そのメモが高じたのが私の日記です。「今自分が感じていることの中にはきっと,将来の自分にとってはあたり前でなくなってしまうことがあるだろう。大人になれば忘れてしまうかもしれないことを書いておこう」と,必死だった気がします。

 2,3年前にこっそり公開しだしたこの日記も,そのスタンスに変わりはありません。 「こんなの書くまでもなくあたり前だなぁ」と今は思えても,将来の自分が忘れて行動してしまうかもしれないことについてはなるべく書いておくようにしています。 「あたりまえのこと書いてるなぁ」と思われるかなぁとも思います。でも,そう思う人がどれほどいるのかはよくわかりません・・・。

 そういえば以前,学会発表した際に,有名大学の学生さんに,私の発表内容は「あたり前」だと言われました。しかし,私には何が「あたり前」なのかが,わかったような,わからないような気がしました。なので「あたり前」ではないと判断することにしました。

 でも自分の研究は,「あたり前」だと思われていることの証拠を積んでいるだけの研究なのだろうと,よく思います。その「あたり前」の積み重ねであたり前でないものにも辿り着ける,と信じておこうとは思ってるんですけど・・・。

 どの程度「あたり前」を共有できている場合に,人間関係は最もうまくいくのでしょう・・・。

「あたり前」って何でしょう・・・

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